khdaの日記

書きつつ考える

聴くことの困難?: 新垣隆ゴーストライター問題で新たに生産される物語

佐村河内守氏のゴーストライター問題がいま話題になっている。18年間にもわたってゴーストライターをつとめた新垣隆氏とはいったいどんな人物なのかと、誰もが気になるところかもしれない。

その新垣氏について、仲山ひふみさんという方が書いた「聴くことの困難をめぐって」というはてなブログのエントリーが人気を集めている。これを読んでみたのだが、少し「?」と思わせる内容だったのでメモしておきたい。

 

そのエントリーでは、新垣氏の作品《交響曲第一番「HIROSHIMA」》が論じられている。この作品についてエントリーの著者は、ヒロシマを題材にした過去の現代音楽作品の、いわばオマージュとして作られていると言いたいようだ。

 

佐村河内の交響曲第一番『HIROSHIMA』は、現代音楽におけるこうした「広島もの」の系譜に結びつく暗い音響、すなわち金管のトーンクラスターと音程変更しながらトレモロするティンパニ、鳴り止まないシンバルといった要素をしっかり押さえている。

 

そしてこうした作風が、ヒロシマという題材を扱う「正しさ」を保障していたのだとエントリーの著者は述べている。その作風の「正しさ」が作曲家・批評家・聴衆に共有され支持されていたのは明らかだったと、著者は断じているのだ。

 

音楽を聴いただけで、作曲者聴覚障害者かどうか、広島出身かどうかが判別できるものだと思っている連中のほうがどうかしている。初めからわかっていたことは、この音楽は単に「正しい」だけだという、ただその一点のみである

 

しかし、この認識は間違っている。なぜなら、そもそも新垣氏はヒロシマを題材にしてこの作品を作ったわけではないからだ。2月6日の記者会見で新垣氏は次のように述べている(発言はblogosの書起しから引用)。

 

最初にゲームの音楽のための曲をつくり、それがCDが発売されました。それがユーザたちの中で評判を取りまして、そのあと彼から、一枚のCDに収まるような、ゲームではなくオーケストラの作品をつくりたいという希望を聴きました。それを発売するのだと、そのために1年間で作ってくれということで、引き受けました。結果的には私は事情はわからないのですが、それは発売はされずそのままになっていました。もちろん、そのときには、「HIROSHIMA」というタイトルではありません。数年後に、そのオーケストラ作品が、「HIROSHIMA」という名で発表されると聴いたときには、大変驚きました。

 

記者会見の内容を信じてよいなら、ヒロシマを題材にした過去の音楽作品の語法を踏襲する意図など、作曲者には全く無かったわけだ。もしこの作品が過去作品をリファーしているように聴こえるとしたら、それは単純な思い込みにすぎない。そういう意味で、この作品の内に”ヒロシマ風の正しい語法”を聴き取ってしまった件のエントリーの著者は、単にこの作品を取り巻く聴衆・批評家などがやっていたことを無自覚に反復しているだけである。

 

マズいのはそれだけではない。エントリーの著者はそこからさらに想像をたくましくしている。いわく、

 

彼はもしかしたら、現代音楽のシーンの硬直性に飽き飽きし、ゲーム音楽や映画音楽の世界で羽を伸ばしたくて、佐村河内からの仕事を引き受けるようになったのかもしれない。

 

しかしこれまた新垣氏の記者会見の発言を見る限り、当たっているとは思えない。新垣氏は、芥川作曲賞に関して以下のように述べている。

 

芥川作曲賞という日本の芸術音楽に送られる賞なので、私もその領域で芸術作品をつくりたいという意志は強く持っております。

 

「芸術音楽」というのは要するに非商業音楽=現代音楽のことなので、本人の弁を信じる限り現代音楽が「硬直している」とか「飽き飽きした」とかいう批判的な意識はもっていないようだ。” 現代音楽に批判的なスタンスをとる作曲家”という像には特に根拠が無い。

にもかかわらず新垣氏をそのように人物として解釈してしまうことは、結局のところ佐村河内氏を通じて障碍者ヒロシマという物語を消費していたのと同じような態度に見えてしまう。硬直した現代音楽に対する批判者という、(ややヒロイックな?)別の物語でそれを置き換えているだけで、やっていること=背後にある物語の消費という点ではあまり変わらない(もちろん、障碍や被爆の方がはるかにセンシティブな問題ではあるが)。

 

このエントリーが人気なのは、多分こうしたわかりやすい「物語」を提示しているからだろう。ノイズと轟音の現代音楽vsロマンティックな商業音楽、ひとりの不遇な現代音楽作曲家、などなど…。衒学的な書きっぷりを取り払ってみれば、元になっている図式は意外と通俗的な「物語」なのだ。

多少ツッコミを入れると、そもそも、「ノイズと轟音の現代音楽」など既に終わっているのではないか。西洋においてはマグヌス・リンドベリ(Magnus Lindberg, 1958-)における作風の変化(調性への回帰)が端的に示している通り、80年代以降盛んになったネオ・ロマン主義によってそういう作風は過去になったのだ。日本においても、例えば武満徹作曲賞の本選に残る曲はかなり多様で、轟音を出す作品もあれば、ドビュッシーをさらに繊細にしたような作品もある。何が言いたいかというと、A対アンチAのような分かりやすい図式には注意が必要ということである。

 

さて、ではエントリーの著者はこうした物語の消費に対してどんな判断を下しているのか。

そこでは一方で、ヒロシマ障碍者東日本大震災などの「物語」が利用され、佐村河内守氏の作品がもてはやされたことが厳しく批判されている。他方で、驚くべきことに、今後も佐村河内=新垣の二人体制を維持し、「佐村河内守のアイデアを具体化できるのは新垣氏だけだ」というような別の物語を作ることが提案されている。

 

これはないだろう。

新垣氏については賛否両論あるとしても、佐村河内氏がやってきたことは多くの人を騙し続ける詐欺まがいの行為だったのは明白だ。まるでちょっと服でも着替えるかのように、大きな物語はダメになったから別の物語で売っていこう、などという話は常識的に考えてあり得ない。

新垣氏の才能は本物なのだから、許されるならば今後は新垣隆という作曲家として商業音楽を作ればいいのであって、なぜウソがばれた後でも二人羽織にしなければならないのか、全くわからない。そんな必要はどこにもないのだ。このことは、結論らしき次の主張とも矛盾している。

 

音楽はただそこで鳴り響き消えていくもなのであり、「天才」や「悲劇」といった意味などは初めから担ってはいない。その軽やかで透明な無意味の中にこそ、旋律、ハーモニー、音色、リズムの解放された喜びが存在する。それをただ聴くことの困難。

 

音楽そのものを聴くことこそ重要だ、誰が作ったかで作品の評価が変わるのはおかしいと主張するのなら、二人体制で作曲するといった欺瞞的な物語を新たに作る必要などなおさらないのではないか。

【記事紹介】ディズニーワールドの新しいRFIDタグシステム、”MagicBand”がアツい!

という内容の記事が面白かったので要約して紹介。元記事はこちら。

プライバシーは要らない: ディズニーとミートスペースのデータ競争(英語)

 

 

記事によると、アメリカのディズニーワールドでは先月からMagicBandという新しい仕組みが導入されたという。これはRFIDタグが仕込まれたゴム製のリストバンドで、事前に申し込みをすると自宅に配送されてくるそうだ。当日はそれを手首につけて入園する。

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これを利用すると、入園も、園内でのアトラクションも、食事も、ショッピングも、リゾート内のホテル宿泊も、要するにリゾート内でお金を使うことに関してはすべて、手首をRFIDリーダーにかざすだけで済んでしまう。財布やパスなどをいちいち取り出さなくていいので、とても便利なサービスなのだ。

 

面白いのは、このリストバンドは家族やカップルで共有するものではなく、完全に個人専用に作られている点だ。大人も子供もひとり一つずつ、自分専用のものを手首につける。リストバンドの裏面には自分の名前がプリントされているという。

 

なぜ、個人専用に作ってあるのだろうか。

記事によると、この仕組みを通じてディズニーは、来園客一人一人の様々な行動をビッグデータとして管理し分析するのが目的だというのだ。だから大人と子供、性別、年齢などを分けてデータ収集する必要がある。個人専用なのはそのためである。

「園内でやること、買うもの、食べるもの、乗るもの、行く場所、こうした全てをMagicBandは追跡する」のだと記事の著者(John Foreman)は書いている。

 

さらに記事によると、こうした追跡データの今後の利用法は無限に考えられるという。例えば、

 

・リゾート内のホテルで出される朝食の中で、どのメニューが客の園内滞在時間を最も長く延ばせるのか

 

・客が早めに帰ってしまったり、あるいはトイレに行く回数が増えたりすることと相関関係があるような特定のローラーコースターはあるのだろうか?それがあるなら、利益を減らしていると言える。そのコースターをどう改善したら良いか

 

・来園者に園内の高価な商品を買わせやすいような特定の乗り物や食事はあるのだろうか。あるとすれば、移動式店舗を使ってそれらをちょうどいい時間に来園者の前で売ることは出来るだろうか

 

といった例だ。

こうしたことが計算可能になると、客はもはや自由意志によって行動しているとは言いづらくなる。自分の好き・嫌いで行動しているつもりが、いつのまにかディズニーの計算に沿って動いていた、なんてことにもなるわけだ。

多少SFチックではあるが、ディズニーのテーマパークという閉じた空間の内部でならば十分にあり得そうな話ではないか。

 

                 ***

 

元記事の後半では、ディズニーの話題から離れて、より一般的にビッグデータとプライバシーの問題が書かれている。こちらも面白いのだが、箇条書きで要点だけメモしておく。

 

・SFの古典的なサイバースペースに替わって、いまやミートスペース(meat space)に対するビッグデータの収集と管理が現実になろうとしている。

・ミートスペースは私たちの生活(食べたり、歩いたり)に関わる空間。サイバースペースはミートスペースよりも狭い。なぜなら、私たちは四六時中、肉体(=meat)を使って行動しているが、ネットにつながっている(=cyber)のはその行動の内の一部でしかないからだ。

・今後マーケティングの対象になるのは、私たちの肉体行動を対象にしたデータ収集と管理である。

・アメリカで現在議論されているNSAの盗聴問題においては、国家にプライバシーが侵害されることを人々は非常に恐れている。しかし他方でこれとは全く逆に、よくわからない私企業に対して人々は自分のプライバシーをすんなりと明け渡している。スマートフォンのアプリなどはその典型だ。

・ディズニーに対しても、人々は積極的に自分のプライバシーを明け渡し、MagicBandを歓迎するだろう。

 

GoogleのMusic Timelineは音楽史じゃないですよ。

Googleの新サービス、Music Timelineがネット上で話題になっている。

はてなブコメなどを見てみると、これをGoogleによる音楽史の視覚化サービスだと勘違いしている人が多いようだ。

Gigazineでも取り上げられている(Googleがクリックするだけで音楽の歴史をジャンル別に表示できるサービス「Music Timeline」を公開)が、こちらも勘違いして報じている。それは違うぞというのをちょっとメモしておきたい。

 

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このグラフはなんなのかと言うと、Google Play Musicを利用して音楽を聴いているユーザーの、今現在におけるライブラリのデータを視覚化したものだ。

 

上に書かれている1950、1960…という年号は、その年にどの音楽ジャンルが多く聴かれていたかを表しているのではなく現時点で、ユーザーのライブラリに入っている音楽を年代順に表したものだ。要するにこれは音楽の歴史ではなく、ビッグデータ分析の一種である。

 

一つのジャンルを追いながら横に沿ってグラフを見てみよう。例えばジャズは、1950-60年あたりにリリースされた楽曲が今でも圧倒的に多く聴かれており、それに比べると70年代以降の楽曲はあまり聴かれていない、ということが分かる(あくまでも今現在の話である。ジャズの全盛期が1950-60年代だった、というような音楽史的な話とは根本的に異なる)。

一方ポップスは、60年代半ばの楽曲が一番人気ではあるものの、それ以降にリリースされた楽曲も平均的に好まれている、と分かる。

 

また、グラフを横ではなく縦に沿って見ると、ある年においてリリースされた楽曲のうち、どのジャンルがいま好んで聴かれているかが分かる。

例えば、1950-80年代あたりまではそれぞれのジャンル間に顕著な好みの差が見られるが、現在に近づくにつれてその差は小さくなっていき、ジャンルの好みが平均化していくのが読み取れる。2000年以降リリースされた新曲の中で突出して好まれるようなジャンルは無く、わりと平均的に、みながみな好きなものをバラバラに聴いている、という状況のようだ。

 

 もっと細かく見ていけば色々発見があるだろう。また、バンド/アーティスト別のグラフを表示することも出来たりと、色々面白そうではある。

 

ただ、注意したいのは、これが単にGoogle Play Musicのユーザーデータでしかない、という点だ。ほかのサービス、例えばiTunes Storeなどのデータを集計すれば、少々違ったグラフが出てくるのではないだろうか。また、クラシックについてもこのデータには含まれていない。さらに、ジャンル分けにも少々問題があるようだ(例えばU2はロックではなくオルタナに分類され集計されている)。

 

こうした問題については

The History of Popular Music, According to Google - Alexis C. Madrigal - The Atlantic

がやや詳しく論じている。参考までに。

『進撃の巨人』はブラック企業漫画だよ、というお話。

NHKで放送された「居酒屋甲子園」が話題になっている。これを見てふと、『進撃の巨人』じゃんと思ってしまったのは私だけだろうか?

 

問題の絶叫演説シーン

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進撃の巨人の絶叫演説シーン

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ホラ、同じだ。

「心臓を捧げよ!」のポーズ真似してる人たちまでいるし。

 

 

そこから逆に『進撃の巨人』について考えてみると、これってブラック企業漫画じゃないの?と言いたくなる部分が多々あることに気づく。

調査兵団なんかアレだし。「人類の自由」みたいな大義のために人がポコポコ死んでいくし。

 

で、そう考えた途端、自分の中で小さな疑問が解けた。

 

疑問というのは、エレンが裁判にかけられたシーンの、エレンの絶叫セリフ。

「いいから黙って全部オレに投資しろ!!」

 

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私は前からこのセリフが引っかかっていた。

なんで「投資しろ」なんて言ったんだろう?我を忘れて絶叫するセリフにしてはちょっと固いというか、そこで経済用語出てきちゃいますか、みたいな。ビミョーな違和感。

 

でもこれ、裁判全体をブラック企業圧迫面接だと思えば、すんなり理解できるのだ。

要は、「私は御社にとって有能な人材ですからぜひ私を人的資本としてお使いください」、という話。

そういう希望をなりふりかまわず絶叫すると、「全部オレに投資しろ!!」となる。

圧迫面接中、居並ぶ面接官に向かってヘコヘコするのはもうたくさんだ。こんな風に叫んで即採用されたら、どんなにスバラシイだろう。

そんな思いがひしひしと伝わってくるではないか。

 

で、有能な社畜人材であるエレン君を、調査兵団のみんなが必死に守ってくれる。「エレンを守れ!」が社員の合い言葉だ。

ほかの有象無象のキャラはポコポコ死んでいくけれど、エレンはそうじゃない。

なんせ調査兵団という名のブラック企業にとって彼は特別な存在だからだ。これぞ働く者の理想ではないか。

 

そんなエレンの志望理由はなんなのか。

 

調査兵団に入ってお前は何をしたいのか?と聞かれた時のエレンの答えがこれ。

 

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もう目とか顔とか全体的にヤバい。というか、

「とにかく巨人をぶっ殺したい」って、それおかしくない?

だって、お前自身巨人じゃん。

 

と誰もが思うところだが、そんなのエレンは気にしない。

強烈な目的意識にとらわれ、自己矛盾だのなんだのについてはいっさい何も悩まない。もちろん、自分が”使われる身”であることにも悩んだりしないどころが、むしろすごく積極的。

 

こういうところがブラック企業のブラック性に何も疑問を感じない若者の姿とダブるのだ。

 

しかし『進撃の巨人』が面白いのは、そんなエレンに対してちゃんとツッコミが入るところである。リヴァイ兵長は「ほぅ…悪くない…」とか言いつつ、あとで「あいつは本物の化け物だ」とちゃんとツッコミを入れている。

 

おまえ、なんか変じゃね?

 

ということだ。

居酒屋甲子園がネット上で批判された時もこんな感じだった。本人たちは悩んでいないけど、外から見て、なんかおかしいぞ、とツッコミが入る。

 

進撃の巨人、とても奥が深い漫画である。

 

「空気」とYou are traffic.

You don't stuck in traffic. You are traffic.

という言葉をネットで目にした。ちょっと面白かったのでメモ。

 

訳すとすれば、「渋滞に巻き込まれるんじゃなく、おまえが渋滞そのものなんだよ」って感じだろうか。でも訳すとすこし野暮ったくなってしまう。やっぱり元の英語のシンプルさが好きだ。

 

この言葉、交通渋滞に限らずいろんな場面で思い当たるフシがある。

自分が何かに巻き込まれた、と思っているけど実は自分自身がそれを作り出している。でもそのことに自分では気づいていない。そんな感じ。

 

「空気」というのはまさにこれだと思う。

「自分は本当は反対だったけど、まわりの空気に逆らえなかった」などと言い訳をする当の本人が、反対しづらい「空気」を自分で作っている。

 

物理的(自然)な空気は吸う人がいなくても存在するが、「空気」はそれを読む人がいなければ存在しえない。つまり「空気」は作為のなせるわざであって、決して自然ではないのだが、しかしそれを誰も作為と思わず自然と思い込んでしまうところに「空気」の本質があるのだろう。「空気」というメタファーそれ自体に、作為を自然へと転換するある種のねじれが含まれている。

人が渋滞に巻き込まれるのではなく渋滞そのもであるように、人は空気にのまれるのではなく空気そのものなのだ。

 

『キルラキル』のマコは死なないのか?

■マコの存在

アニメ『キルラキル』の満艦飾マコ(とその家族たち)は、物語の中でやや異質な役割が与えられているように見える。ドタバタ・ナンセンス・ギャグ・ハイテンションを体現し、典型的な記号的キャラクターであるマコは、『トムとジェリー』のトムのごとく、傷つかないキャラクターとして描かれているように見える。殴られても、高所から落ちても、結局はなんともない。一時的には傷つくが、その描写はコミカルで、生死の危機がせまる様子は感じられない。第12話でヤケドを負うシーンがあったが、そこでの描写は体全体がうす紅色になり、太く赤い斜線が何本も描かれるという、「ヤケドの記号」の典型でしかなかったように思える。

 

■ふたつの想像力

一方で、このマコと対照的なのが主人公の纏流子だ。流子は、その名も「鮮血」というバトルスーツに身をつつみ、みずからの血を消費して戦う。作中で何度も失血死が言及されていることからもわかるように、流子は典型的な傷つく身体をもったキャラクターである。

流子とマコ、主人公と親友、傷つく身体傷つかない身体。この対比はもちろん意図的になされている。流子とマコという、互いに似た名前でありながら、一方は漢字、他方はカタカナであるのにも意味が込められているはずだ。漢字の使用がきわめて多いこの作品の中で、「マコ」というカタカナの名前をもつこと自体、記号的な・異質なキャラクターを象徴するものとして読めるだろう。

 

よく知られているように、批評家の大塚英志は、傷つかない身体を支える想像力を「まんが・アニメ的リアリズム」と呼んでいる。大塚によれば、「まんが・アニメ的リアリズム」は傷つく身体=「自然主義的リアリズム」を抑圧したところに成立する(それを成立させたのが手塚治虫であるというのが、大塚の見立てだ)。そして、漫画史における優れた作品では、その抑圧という歴史性に自覚的な物語が描かれているという。

 

『キルラキル』では、いまのところ二つの想像力が同居していると言える。これにはどんな意図が込められているのだろうか。現時点(第13話までしか公開されていない)ではまだ結論は出せない。しかし、マコの存在が、単なる昭和的なレトロ趣味やギャグ要因でしかないとしたら、そこにはもはや歴史に対する自覚などは存在しないことになってしまう。傷つく身体も傷つかない身体も、現代のアニメにおいては同じようなキャラクターとしてフラットに消費されるだけだ、したがって歴史性など問題ではない、という意図でこのアニメが作られているのだとしたら、残念に思う。いずれにせよ今後の展開に期待しよう。もしかしたら、傷つかない身体のマコが、思わぬ形で死ぬようなこともあるかもしれないのだ。

 

■『天元突破グレンラガン』からの後退か?

『キルラキル』は『天元突破グレンラガン』で監督・シリーズ構成をつとめた今石洋之氏・中島かずき氏らが中心となり、『グレンラガン』のスタッフが再集結して作ったアニメとして注目されている。

グレンラガン』はそもそも、きわめて批評的なアニメだった。「俺のドリル」によって「ロボットを動かす」という設定は、ロボットアニメに込められている男の子のファリックな欲望を、いわばむき出しの形で表したものだ(言うまでもないがドリルはファルスの象徴である)。そして、少年まんが・アニメでお約束の「熱血」を過剰なまでに強調しつつ、「強さのインフレ」それ自体を、銀河レベルにまで巨大化するロボットという形で露悪的に描いてみせる。要するに、少年まんが・アニメに受け継がれてきたさまざまな習慣・歴史・お約束などをパロディ化してみせることにより成功した作品だったのである。

もしこの見方が妥当であるなら、『キルラキル』にも同様の批評性を求めたい気持ちになるのが自然だ。しかしいまのところ、『グレンラガン』にあったような批評性が『キルラキル』には欠けているように見えるのだがどうだろうか?何でもありの雑居性やレトロ趣味でこの作品が終わってしまわないことを私は密かに期待している。

「残念な人」という言い回しについて

最近、「残念な人(たち)」という言い回しをよく目にするようになった気がする。これについてつらつら考えてみる。

 

本来、「残念だ」という言葉は、何らかの理想や期待を裏切っているものや人に対して使う。だから「肯定的評価」という前提が共有されていなければ、そもそも残念に思うこともない。しかしネット上で「残念な人」と言う場合、これとは少し違った使い方をしているようだ。

 

「残念な人」の類語に「アレな人」というのがあるが、だいたい同じ意味だろう。要は「バカ」「ダメ」という話なのだが、そう言い切ってしまうとカドが立つうえ、言い切った側もまたバカに見えてしまう場合があるので、「残念なひと」「アレな人」というマイルドな婉曲表現を使うのだ。さらに、相手を「バカ」と罵倒すれば「いやおまえがバカだろ」的な、「おまえの方が真のバカ」合戦が始まってしまうことがネット上ではとても多い。それをやんわりと避ける狙いもあるように感じる。

論文執筆の際に用いるレトリックでも同じような婉曲表現がある。「こいつの考えバカ」とは書かず、「〇〇の議論には再考の余地がある」とか書くわけだ。

 

しかし考えてみると、「バカ」のような強い否定的表現は、実のところ容易に反転するものだ。

「バカと天才は紙一重」とか「まずバカになれ!」のような形で、否定がクルッと裏返って肯定にもなる。絶望を突き詰めると希望になるとか、痛みが快楽に変わるだとか、この種の反転をあげるときりがない。こうした否定の反転というロジックを壮大な哲学にまで高めたのがヘーゲル弁証法だが、それはともかく、こうした点を考慮してみると「残念な人」というのは「バカ」に類するような強い否定性を持っていない。だから肯定に反転することは無く、いわば、中途半端に否定的である。そうであるがゆえに、逆に表現として一種の強みを持っている。少し突き放しつつ、嗤いつつ、見下しつつ、嘆息する、そんな感じの強みだ。アイロニーの強みだろうか(そういえばヘーゲルロマン派のアイロニーにはかなり批判的だった)。

 

面と向かって相手に「バカ!」という姿は容易に想像できるが、「残念!」という姿は想像できない。波田陽区になってしまう。

思うに、「残念な人」という言い回しは本質的に陰口なのだ。けっして、対面する相手に対する罵倒語ではない。相手のいないところで「あの人ってちょっと残念な人だよねえ」などと言ってみせる、そういう距離感がこの語にはある。ネット上で『〇〇という残念な人たち』のようなタイトルのブログ記事をよく見かけるが、陰口的な距離感が込められているのだろう。本来ネットには陰も日向も無いとは思うが。

 

この「陰口」という性格は、私たちの不安をかきたてずにおかない。自分は残念な人のカテゴリーに入ってしまわないだろうか、残念な人に見えてしまわないだろうか、というザワザワした不安だ。ときに「バカな人」になりたがる私たちはしかし、けっして「残念な人」になりたいとは思わない。

「あそこに残念な人がいるよ」と嗤う”こちら側”のポジションに自分は立っていたい。その方がなんとなく安心するし、メタ的なポジションを取れたかのように感じられるからだ。

 

とか批判的なことばかりずらずら書いてしまったが、こんなことを書くヤツはきっと「残念な人」である。