khdaの日記

書きつつ考える

『キルラキル』のマコは死なないのか?

■マコの存在

アニメ『キルラキル』の満艦飾マコ(とその家族たち)は、物語の中でやや異質な役割が与えられているように見える。ドタバタ・ナンセンス・ギャグ・ハイテンションを体現し、典型的な記号的キャラクターであるマコは、『トムとジェリー』のトムのごとく、傷つかないキャラクターとして描かれているように見える。殴られても、高所から落ちても、結局はなんともない。一時的には傷つくが、その描写はコミカルで、生死の危機がせまる様子は感じられない。第12話でヤケドを負うシーンがあったが、そこでの描写は体全体がうす紅色になり、太く赤い斜線が何本も描かれるという、「ヤケドの記号」の典型でしかなかったように思える。

 

■ふたつの想像力

一方で、このマコと対照的なのが主人公の纏流子だ。流子は、その名も「鮮血」というバトルスーツに身をつつみ、みずからの血を消費して戦う。作中で何度も失血死が言及されていることからもわかるように、流子は典型的な傷つく身体をもったキャラクターである。

流子とマコ、主人公と親友、傷つく身体傷つかない身体。この対比はもちろん意図的になされている。流子とマコという、互いに似た名前でありながら、一方は漢字、他方はカタカナであるのにも意味が込められているはずだ。漢字の使用がきわめて多いこの作品の中で、「マコ」というカタカナの名前をもつこと自体、記号的な・異質なキャラクターを象徴するものとして読めるだろう。

 

よく知られているように、批評家の大塚英志は、傷つかない身体を支える想像力を「まんが・アニメ的リアリズム」と呼んでいる。大塚によれば、「まんが・アニメ的リアリズム」は傷つく身体=「自然主義的リアリズム」を抑圧したところに成立する(それを成立させたのが手塚治虫であるというのが、大塚の見立てだ)。そして、漫画史における優れた作品では、その抑圧という歴史性に自覚的な物語が描かれているという。

 

『キルラキル』では、いまのところ二つの想像力が同居していると言える。これにはどんな意図が込められているのだろうか。現時点(第13話までしか公開されていない)ではまだ結論は出せない。しかし、マコの存在が、単なる昭和的なレトロ趣味やギャグ要因でしかないとしたら、そこにはもはや歴史に対する自覚などは存在しないことになってしまう。傷つく身体も傷つかない身体も、現代のアニメにおいては同じようなキャラクターとしてフラットに消費されるだけだ、したがって歴史性など問題ではない、という意図でこのアニメが作られているのだとしたら、残念に思う。いずれにせよ今後の展開に期待しよう。もしかしたら、傷つかない身体のマコが、思わぬ形で死ぬようなこともあるかもしれないのだ。

 

■『天元突破グレンラガン』からの後退か?

『キルラキル』は『天元突破グレンラガン』で監督・シリーズ構成をつとめた今石洋之氏・中島かずき氏らが中心となり、『グレンラガン』のスタッフが再集結して作ったアニメとして注目されている。

グレンラガン』はそもそも、きわめて批評的なアニメだった。「俺のドリル」によって「ロボットを動かす」という設定は、ロボットアニメに込められている男の子のファリックな欲望を、いわばむき出しの形で表したものだ(言うまでもないがドリルはファルスの象徴である)。そして、少年まんが・アニメでお約束の「熱血」を過剰なまでに強調しつつ、「強さのインフレ」それ自体を、銀河レベルにまで巨大化するロボットという形で露悪的に描いてみせる。要するに、少年まんが・アニメに受け継がれてきたさまざまな習慣・歴史・お約束などをパロディ化してみせることにより成功した作品だったのである。

もしこの見方が妥当であるなら、『キルラキル』にも同様の批評性を求めたい気持ちになるのが自然だ。しかしいまのところ、『グレンラガン』にあったような批評性が『キルラキル』には欠けているように見えるのだがどうだろうか?何でもありの雑居性やレトロ趣味でこの作品が終わってしまわないことを私は密かに期待している。

「空気」とYou are traffic.

You don't stuck in traffic. You are traffic.

という言葉をネットで目にした。ちょっと面白かったのでメモ。

 

訳すとすれば、「渋滞に巻き込まれるんじゃなく、おまえが渋滞そのものなんだよ」って感じだろうか。でも訳すとすこし野暮ったくなってしまう。やっぱり元の英語のシンプルさが好きだ。

 

この言葉、交通渋滞に限らずいろんな場面で思い当たるフシがある。

自分が何かに巻き込まれた、と思っているけど実は自分自身がそれを作り出している。でもそのことに自分では気づいていない。そんな感じ。

 

「空気」というのはまさにこれだと思う。

「自分は本当は反対だったけど、まわりの空気に逆らえなかった」などと言い訳をする当の本人が、反対しづらい「空気」を自分で作っている。

 

物理的(自然)な空気は吸う人がいなくても存在するが、「空気」はそれを読む人がいなければ存在しえない。つまり「空気」は作為のなせるわざであって、決して自然ではないのだが、しかしそれを誰も作為と思わず自然と思い込んでしまうところに「空気」の本質があるのだろう。「空気」というメタファーそれ自体に、作為を自然へと転換するある種のねじれが含まれている。

人が渋滞に巻き込まれるのではなく渋滞そのもであるように、人は空気にのまれるのではなく空気そのものなのだ。