khdaの日記

書きつつ考える

「声かけ事案」をリスクと言うのは間違ってる

夜道でひとり、泣いている子供がいる。声をかけようか?いやダメだ。「声かけ事案」にされてしまうかもしれない。そんなリスクはご免だ。

夜中に子供が泣きながら歩いてたので通報したが・・・ - Togetterまとめ

 

こんな意見を見て、なんだかやりきれない気分になった。リスク社会というのは、行動がとれなくなってしまう社会だ、とウルリッヒ・ベックが指摘していたのを思い出す。

 

決定的な点は、リスクが増大するにつれて、地平線がよく見えなくなっていくことである。なぜなら、リスクは、何をしてはいけないかを教えるが、何をしたらよいかは教えてくれないからである。リスクが見つかると、逃避命令が優勢になっていく。この世界をリスクにさらされた場所と描写する人は、最終的には行動を起こすことがきなくなる。重要なのは、リスクを統制しようという糸が一般に浸透し、高まってくと、結局のところリスクの統制が不可能になる点である。 (『再帰的近代化』而立書房, p.24)

 

「リスク」という視点からは、「何をしたらよいか」は出てこない。どんなに考えてみても、「何をしてはいけないか」の議論になってしまう。だから、何かを積極的に語るためには、「リスク」という発想を相対化してみないといけない。

 

そこで、今回の問題の場合、そもそもこれがリスクとして語られるのがおかしいのではないか、と考えてみることが必要だ。たしかに、泣いている子供に声をかけたら、不幸な誤解がいくつも重なって、最終的に「不審者」と見られてしまうことはあり得る。しかし事前に110番通報し、警察の指示を仰いでいるのであれば、誤解される可能性は極めて低い。これはごく常識的な話であって、もし納得がいかないのであれば、それはネット上でしばしば取り上げられる「声かけ事案」のイメージに惑わされすぎではないだろうか。しかも、実際に何らかの犯罪容疑がかけられなければ、マスメディア等で名前が発表されることはないのである。「声かけ事案」=名前がさらされる=人生終了、的な短絡はあり得ない。

しかし、−と人は言うだろう−泣いている子供を助けようとしたことによって犯罪者扱いされる可能性もゼロではない、もしそうなってしまったら取り返しがつかない、だからそんなリスクは冒せない、と。だがこの発想自体がおかしいのだ。最初の行為と最終的な結果を短絡し、その間にある様々な行為の連鎖を見ていない。例えるなら、「家の外に出ると車にひかれて死ぬリスクがある、だから家から一歩も外に出ないのが正しい」と言っているようなものだ。たしかに車にひかれる可能性はあるが、だからといってそれをリスクとみなし、家から出ないのはバカげている。最大の不幸を想定しまい、最小の一歩が踏み出せない。リスクという発想では、最大/最小がべったりとくっついてしまう。

 

大切なのは、リスクという事実があるのではなく、リスクという発想があるだけだ、と考えることである。ただでさえ日本人はリスク回避傾向が強い、と言われているのだから、なおさらだ(『リスクに背を向ける日本人』講談社現代新書)。ある物事に対してリスクという発想を用いるのが適切かどうかは、ケースバイケースで判断されるべきであり、「泣いている子供を助ける」といった事例でリスク的発想を用いてしまうのは明らかにミスリードである。私たちは、リスクという発想から、ときに自由になるべきだ。行動を起こせない社会なんて、誰も望んでいないのだから。