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khdaの日記

書きつつ考える

「残念な人」という言い回しについて

最近、「残念な人(たち)」という言い回しをよく目にするようになった気がする。これについてつらつら考えてみる。

 

本来、「残念だ」という言葉は、何らかの理想や期待を裏切っているものや人に対して使う。だから「肯定的評価」という前提が共有されていなければ、そもそも残念に思うこともない。しかしネット上で「残念な人」と言う場合、これとは少し違った使い方をしているようだ。

 

「残念な人」の類語に「アレな人」というのがあるが、だいたい同じ意味だろう。要は「バカ」「ダメ」という話なのだが、そう言い切ってしまうとカドが立つうえ、言い切った側もまたバカに見えてしまう場合があるので、「残念なひと」「アレな人」というマイルドな婉曲表現を使うのだ。さらに、相手を「バカ」と罵倒すれば「いやおまえがバカだろ」的な、「おまえの方が真のバカ」合戦が始まってしまうことがネット上ではとても多い。それをやんわりと避ける狙いもあるように感じる。

論文執筆の際に用いるレトリックでも同じような婉曲表現がある。「こいつの考えバカ」とは書かず、「〇〇の議論には再考の余地がある」とか書くわけだ。

 

しかし考えてみると、「バカ」のような強い否定的表現は、実のところ容易に反転するものだ。

「バカと天才は紙一重」とか「まずバカになれ!」のような形で、否定がクルッと裏返って肯定にもなる。絶望を突き詰めると希望になるとか、痛みが快楽に変わるだとか、この種の反転をあげるときりがない。こうした否定の反転というロジックを壮大な哲学にまで高めたのがヘーゲル弁証法だが、それはともかく、こうした点を考慮してみると「残念な人」というのは「バカ」に類するような強い否定性を持っていない。だから肯定に反転することは無く、いわば、中途半端に否定的である。そうであるがゆえに、逆に表現として一種の強みを持っている。少し突き放しつつ、嗤いつつ、見下しつつ、嘆息する、そんな感じの強みだ。アイロニーの強みだろうか(そういえばヘーゲルロマン派のアイロニーにはかなり批判的だった)。

 

面と向かって相手に「バカ!」という姿は容易に想像できるが、「残念!」という姿は想像できない。波田陽区になってしまう。

思うに、「残念な人」という言い回しは本質的に陰口なのだ。けっして、対面する相手に対する罵倒語ではない。相手のいないところで「あの人ってちょっと残念な人だよねえ」などと言ってみせる、そういう距離感がこの語にはある。ネット上で『〇〇という残念な人たち』のようなタイトルのブログ記事をよく見かけるが、陰口的な距離感が込められているのだろう。本来ネットには陰も日向も無いとは思うが。

 

この「陰口」という性格は、私たちの不安をかきたてずにおかない。自分は残念な人のカテゴリーに入ってしまわないだろうか、残念な人に見えてしまわないだろうか、というザワザワした不安だ。ときに「バカな人」になりたがる私たちはしかし、けっして「残念な人」になりたいとは思わない。

「あそこに残念な人がいるよ」と嗤う”こちら側”のポジションに自分は立っていたい。その方がなんとなく安心するし、メタ的なポジションを取れたかのように感じられるからだ。

 

とか批判的なことばかりずらずら書いてしまったが、こんなことを書くヤツはきっと「残念な人」である。